>補助の為の偵察部隊と一緒に、私は5/7にHryhorivka と Bilohorivka を探索した。
Bilohorivkaにいる前線部隊は、ロシアの様々な車両が川の対岸に集結すると報告していた。
私は同地を探索し、ロシアが浮き橋を架けるであろう地点を提案した。
そして光学視差式距離計を使って、川幅が80mなのを突き止めた。従ってロシアは橋のパーツが8つ(10mで1つのパーツ)が対岸までつなげるのに必要であろう。
川の流れによって、そのような橋を架けるのには、ロシア軍がモーターボートが必要になるであろうと私は知っていて、
そして架橋には少なくても2時間かかるだろうということを知っていた。全て確認するのに1日かかった。そして5/8は同様に確認をしなければならなかった。
同様に、私は川の部分を監視していた部隊に対して、モーターボートの音に気をつける必要があると伝えた。ここの視界はロシア軍が森に火を放った為にクソで、そして大量の発煙弾を投げていた。加えて霧がかっていた。
監視部隊は船の音を聞いた。そして5/8の朝に彼らは架橋を行った。私が言ったまさにその場所で。私も同様に現地を調べるためにそこにいた。そして私のドローンで、ロシア軍が浮き橋を行っていた。直ちに司令官に対して報告した。
砲兵は準備ができていた。私達はロシアが架橋した8つのうち7つの橋のパーツを確認することが出来た。ロシアはいくらかの部隊と車両を川の上に移動し続けてさえいた。
戦闘が始まった。20分後くらいに偵察部隊によってロシア軍が橋をかけているのを確認できた。重砲がロシア軍に対して従事した、そして次に航空機が同様に細切れにした。
私はまだその位置にいて、人生でそのような激しい戦闘をいまだかつて見たことが無かった。
戦闘の1日後、5/9の朝に橋が落ちた。いくらかのロシア軍(車両30両~50両と歩兵)がウクライナ側の川岸に留まり、退路は無かった。ロシア軍は壊れた橋を使って逃げていた。それから彼らは新しい橋を並べようとしていた。それから、航空機が激しい空爆をこの地域で行い、全ての残ったロシア人を破壊した。そして他の橋を作ろうとしていた。
噂では最大1500人のロシア兵が死んだ。彼らの戦術目標は渡河をして、そしてリシチャンシクを包囲することだった。彼らは哀れにも失敗した。
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