◆習近平氏はどのような子どもだったのか?
幼いころの習近平は、不自由のない暮らしを送っていたと思われます。
習近平は共産党の高級幹部、いわば「名門」の家庭に生まれます。1949年の建国後、父親の習仲勲は、毛沢東に呼ばれて首都の北京に住居を移し、中国政府の要職につきました。
そして数年後、長男として生まれたのが習近平でした。
習近平の名前は、首都の北京と関係があります。北京は、1949年までは「北平」と呼ばれていたので「北京の近く」という意味で「近平」と名付けられたという説があります。ちなみに、習近平の弟は「遠平」です。
◆ノミやシラミに悩んだ“ほら穴”ぐらし
・苦労知らずの少年だった?
いいえ。習近平の人生は、その後、暗転します。父親の失脚が原因です。
文化大革命(1966~1976年。以下、文革)が始まる前、父親の習仲勲は、政治的に問題があると批判された出版物へのかかわりを理由に、毛沢東から怒りを買い、失脚させられました。
その後、長期間にわたって軟禁されたり、拘束されたりしました。文革の時期には、中学生であった習近平も、周囲の人々につるし上げられたり、肉体的に虐待されたりもしました。
文革中、都会の青年たちを農村に送って労働させようという「下放」運動が始まると、習近平も北西部、陝西省の貧しい農村に行き、20代前半まで、農業をしながら過ごしました。
当時、習近平が住んでいたのは、ヤオトンと呼ばれる崖の岩肌に穴を掘ったほら穴のような場所です。
後年、習近平は農村ではノミやシラミに悩まされ、食事にも困るほど貧しく、不便な暮らしだったと振り返っています。過酷な体験が人間性や社会を見る目を養ったとも話しています。
・「ほら穴」のような場所から、どうやって共産党の出世コースにのったの?
習近平の父親は、文革が終わり、70年代後半に名誉を回復し、80年代には要職に復帰します。これ以後、習近平は陰に陽に父親の支援を受けながら、出世の階段をのぼっていきました。
ただし、習近平自身も地元の人たちからの人望もそれなりにあり、政治家としての魅力、能力がなかったわけではないと思います。
当時の中国では、政治家の父親が失脚したら、その子どもは共産党員や行政幹部になれないのが普通でした。しかし、習近平は、農村にいた頃に、数回の入党拒絶を受けながらも、最終的には認められ、共産党員になります。習近平のがんばりを、周囲の人々も認めていたということでしょう。
その後、習近平は、北京にある名門の清華大学を卒業し、国防相の秘書になります。つまり、いったんは軍人になったのです。
ただその後、地方の末端の党・政府組織で働きたいと願い出ました。河北省正定県という農村地域に異動し、県党委員会書記(県のトップ)として、党官僚としての第一歩を踏み出します。
以下ソース
https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_new...
返信する