若き英雄 16歳でマイダン革命に参加、24歳でロシアとの戦いに死す
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タラス・ラトゥシュニーさんは、息子のローマンさんから受けた電話を今でも覚えている。それは2013年、死者も出たウクライナのマイダン革命の最中にかかってきた。
「僕は無事だ、(キーウのマイダン広場から)友達と家に帰るところだ。心配しないで。おやすみ」と、電話口でローマンさんは言った――だがタラスさんの耳には、同じ声がテレビからも聞こえていた。そこでは当時16歳の息子が、抗議デモ隊は建物内に突入するつもりだと宣言していた。
ウクライナ国内に広がり、欧州とロシアのどちらにつくかという存続をかけた戦いの象徴となった抗議活動は、国の未来は自分たちで作ると覚悟を決めた若い世代を駆り立てた――その最前線にいたのがローマンさんだった。
ある意味、ローマンさんの政治的決意はマイダン革命のずっと前から始まっていた。両親は2人とも元活動家で、ジャーナリストの経歴も持っていた。作家で詩人でもあった母親のスビトラーナ・ポバリャイェーバさんは、2人の息子とともにマイダン革命に参加していた。
だがローマンさんが成人するにつれ、そうした道筋は明確になった。ちょうどロシアがクリミアを違法に併合し、東部ではウクライナ軍と親ロシア派分離主義勢力が激しい戦闘を繰り広げている最中だった。
22年にはローマンさんもすでに環境運動や反汚職運動の活動家として名を知られ、賛同者やファンのフォロワーを抱えていた。
やがて、ロシアがウクライナに侵攻した。
ローマンさんは父親や弟とともにすぐさま軍に入隊した。マイダン革命の勃発から9年、ローマンさんは再び国の未来のため、同世代の若者の多くが抱く民主主義への希望のために前線で戦っていた。
だが、生きて帰れないかもしれないことは本人も承知していた。その年の5月には、ボロディミル・ゼレンスキー大統領の言葉を借りれば、ウクライナは1日で最大100人の死者を出す劣勢に追い込まれていた。
同じ月、ローマンさんは――タラスさんいわく「行動を起こす際にはいつも計画を立てるタイプだった」――A4用紙の両面に遺書と声明をしたためた。
そこには葬式の仕方、使用する音楽、コサックの十字架を模した墓碑といった葬儀の希望が書かれていた。母親の詩も引用されていた。両親や祖父母、そして自身が生まれ育った街への熱い思いもしたためられていた。「キーウよ、遠く離れた地で、お前のために僕は逝く」
2週間後の22年6月8日、ローマンさんはウクライナ東部ハルキウ州のイジューム近郊で、任務遂行中に戦死した。24歳だった。
「僕は無事だ、(キーウのマイダン広場から)友達と家に帰るところだ。心配しないで。おやすみ」と、電話口でローマンさんは言った――だがタラスさんの耳には、同じ声がテレビからも聞こえていた。そこでは当時16歳の息子が、抗議デモ隊は建物内に突入するつもりだと宣言していた。
ウクライナ国内に広がり、欧州とロシアのどちらにつくかという存続をかけた戦いの象徴となった抗議活動は、国の未来は自分たちで作ると覚悟を決めた若い世代を駆り立てた――その最前線にいたのがローマンさんだった。
ある意味、ローマンさんの政治的決意はマイダン革命のずっと前から始まっていた。両親は2人とも元活動家で、ジャーナリストの経歴も持っていた。作家で詩人でもあった母親のスビトラーナ・ポバリャイェーバさんは、2人の息子とともにマイダン革命に参加していた。
だがローマンさんが成人するにつれ、そうした道筋は明確になった。ちょうどロシアがクリミアを違法に併合し、東部ではウクライナ軍と親ロシア派分離主義勢力が激しい戦闘を繰り広げている最中だった。
22年にはローマンさんもすでに環境運動や反汚職運動の活動家として名を知られ、賛同者やファンのフォロワーを抱えていた。
やがて、ロシアがウクライナに侵攻した。
ローマンさんは父親や弟とともにすぐさま軍に入隊した。マイダン革命の勃発から9年、ローマンさんは再び国の未来のため、同世代の若者の多くが抱く民主主義への希望のために前線で戦っていた。
だが、生きて帰れないかもしれないことは本人も承知していた。その年の5月には、ボロディミル・ゼレンスキー大統領の言葉を借りれば、ウクライナは1日で最大100人の死者を出す劣勢に追い込まれていた。
同じ月、ローマンさんは――タラスさんいわく「行動を起こす際にはいつも計画を立てるタイプだった」――A4用紙の両面に遺書と声明をしたためた。
そこには葬式の仕方、使用する音楽、コサックの十字架を模した墓碑といった葬儀の希望が書かれていた。母親の詩も引用されていた。両親や祖父母、そして自身が生まれ育った街への熱い思いもしたためられていた。「キーウよ、遠く離れた地で、お前のために僕は逝く」
2週間後の22年6月8日、ローマンさんはウクライナ東部ハルキウ州のイジューム近郊で、任務遂行中に戦死した。24歳だった。
●欧州の未来をかけて
マイダン革命のきっかけは、当時のビクトル・ヤヌコビッチ大統領が欧州連合(EU)との貿易協定を突然破棄したことが始まりだった。協定を支持していた人々は、ウクライナと西側との関係が緊密化し、経済成長がもたらされ、国境を越えた交易が始まるだろうと期待を寄せていた。
ところが、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領はロシア政府の方を向き、ウラジーミル・プーチン大統領と新たな協定を結んで、EUとの関係強化という反対勢力の夢を打ち砕いた。
怒りに燃えた数千人のデモ隊は、キーウのマイダン広場、別名「独立広場」を占拠した。数カ月のうちに抗議活動の規模は拡大し、民主主義志向や親EU路線に加え、ヤヌコビッチ大統領の政策、政府内に蔓延(まんえん)する汚職、警察の暴挙に対する国民の反感も反映するようになった。
こうした抗議活動では必ずローマンさんの姿があった。当時16歳のローマンさんを見つけたければ「(衝突が)一番激しいところに行く」のが一番だったとタラスさんは言う。「(あの頃は)99%の確率で現場にいた。残り1%は、力尽きてどこかで睡眠を取っていた」
暴動が激しさを増すにつれ、ローマンさんもたびたび衝突に巻き込まれた――だがその後父親がCNNに語ることになる、理想主義的な情熱の兆しも育まれていた。
歴史学者のマーシ・ショア氏は、ローマンさんに革命について尋ねた時のことを振り返った。抗議活動に参加して母親は戸惑っているのではないかという質問に対し、10代のローマンさんはこう答えたという。「母はフルシェフスキー通りで火炎瓶を作っていたよ」
その後政府による弾圧はエスカレートし、14年2月20日にはついに警察と政府軍がデモ隊に実弾を発砲した。革命の期間中に約100人が命を落としたと言われている。最終的にヤヌコビッチ大統領は退任し、ウクライナ国外に逃亡した。
抗議運動を皮切りに、ウクライナではクリミア併合や東部ロシア国境付近での紛争など一連の出来事が混乱をもたらした。だが同時に数々の政治改革も行われ、変化を待ち望んでいたウクライナの若者に希望がもたらされた。
「木を見て森が見えないのと同じように、マイダンに参加していた僕らには、革命がウクライナの歴史全体におよぼした影響が今はまだ見えないかもしれない。だが、重大な影響を与えたのだと僕は思いたい」。14年、革命記念日を前にユーチューブにアップロードされた動画の中でローマンさんはこう語った。
「僕にとっては、すべて無駄ではなかった」とローマンさんは続けた。「この国では数多くのプラスの変化が起きている。それもマイダンあってこそだ」
マイダン革命のきっかけは、当時のビクトル・ヤヌコビッチ大統領が欧州連合(EU)との貿易協定を突然破棄したことが始まりだった。協定を支持していた人々は、ウクライナと西側との関係が緊密化し、経済成長がもたらされ、国境を越えた交易が始まるだろうと期待を寄せていた。
ところが、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領はロシア政府の方を向き、ウラジーミル・プーチン大統領と新たな協定を結んで、EUとの関係強化という反対勢力の夢を打ち砕いた。
怒りに燃えた数千人のデモ隊は、キーウのマイダン広場、別名「独立広場」を占拠した。数カ月のうちに抗議活動の規模は拡大し、民主主義志向や親EU路線に加え、ヤヌコビッチ大統領の政策、政府内に蔓延(まんえん)する汚職、警察の暴挙に対する国民の反感も反映するようになった。
こうした抗議活動では必ずローマンさんの姿があった。当時16歳のローマンさんを見つけたければ「(衝突が)一番激しいところに行く」のが一番だったとタラスさんは言う。「(あの頃は)99%の確率で現場にいた。残り1%は、力尽きてどこかで睡眠を取っていた」
暴動が激しさを増すにつれ、ローマンさんもたびたび衝突に巻き込まれた――だがその後父親がCNNに語ることになる、理想主義的な情熱の兆しも育まれていた。
歴史学者のマーシ・ショア氏は、ローマンさんに革命について尋ねた時のことを振り返った。抗議活動に参加して母親は戸惑っているのではないかという質問に対し、10代のローマンさんはこう答えたという。「母はフルシェフスキー通りで火炎瓶を作っていたよ」
その後政府による弾圧はエスカレートし、14年2月20日にはついに警察と政府軍がデモ隊に実弾を発砲した。革命の期間中に約100人が命を落としたと言われている。最終的にヤヌコビッチ大統領は退任し、ウクライナ国外に逃亡した。
抗議運動を皮切りに、ウクライナではクリミア併合や東部ロシア国境付近での紛争など一連の出来事が混乱をもたらした。だが同時に数々の政治改革も行われ、変化を待ち望んでいたウクライナの若者に希望がもたらされた。
「木を見て森が見えないのと同じように、マイダンに参加していた僕らには、革命がウクライナの歴史全体におよぼした影響が今はまだ見えないかもしれない。だが、重大な影響を与えたのだと僕は思いたい」。14年、革命記念日を前にユーチューブにアップロードされた動画の中でローマンさんはこう語った。
「僕にとっては、すべて無駄ではなかった」とローマンさんは続けた。「この国では数多くのプラスの変化が起きている。それもマイダンあってこそだ」
●「私の青春、私の人生、私の戦い」
22年に戦争が勃発すると、不動産開発からキーウの緑地を守る活動でその名を知られていたローマンさんは、キーウの戦いに参戦して首都からロシア軍を撤退させた。
その後は第93独立機械化旅団に入隊し、ロシア占領地から町を解放したり、ウクライナ北東部スーミ州で戦闘に加わるなどした。
ローマンさんはこの間ずっと、インスタグラムに自分や仲間の画像を随時投稿した――処刑されたウクライナの知識人ミハイル・セメンコの詩を投稿したこともあった。
「私が死ぬのは、死期が訪れたからではない/人生を生きたからだ」「万物が物言わず成長する時、私は旅立つだろう/最後の嵐の夜を前にして――/死が私の心臓を止めると同時に、忽然(こつぜん)と/私の青春、私の人生、私の戦いを止めた瞬間に」(ウクライナ系米国人作家のボリス・ドレイリュク氏の翻訳から)
一方、父親はローマンさんが置かれていた危険な状況を考えないようにしていた。
「元気か? 困っていることはないか? そう尋ねることしかできない。はるか遠く離れ、息子の置かれている状況に何もしてやれない父親の愚かな問いかけだ」。11月に墓地を訪れた際、タラスさんはこう語った。
22年6月に戦死した後、ローマンさんの遺体はキーウに運ばれ、市長を含む数百人が参列する中で葬儀と追悼式が行われた。独立広場にも大勢が追悼に駆け付けた――13年、この先輝かしい人生を控えた若き抗議参加者が、まさに戦ったその場所で。
あれから1年以上が経過し、ローマンさんが遺(のこ)した足跡とマイダン革命の記憶は今もウクライナ人の心に響いている。戦争が2年目の冬に突入する中、ウクライナは全力でEU加盟を目指している。
この長年の夢は11月、実現に一歩近づいた。欧州委員会が具体的なウクライナ加盟交渉を年明けから始めるべきと勧告したのだ。
CNNがローマンさんの墓を訪れた際にも、2人の若い女性が墓参りに来ていた。ローマンさんの遺影のそばには、手向けられたばかりの花束とキャンドルが置かれていた。
「息子が自分たちを誇りに思ってくれたらうれしい。(息子の死から)1年以上経つが、ほぼ毎日何かしらローマンに関連することが起きている」とタラスさんは感情をあらわに語った。「息子の名のもとに大勢のウクライナ人が戦場へ向かい、息子の偉業を引き継ごうとしている。私の目には今でもローマンの雄姿が見える」
https://www.cnn.co.jp/world/35212761.htm...
22年に戦争が勃発すると、不動産開発からキーウの緑地を守る活動でその名を知られていたローマンさんは、キーウの戦いに参戦して首都からロシア軍を撤退させた。
その後は第93独立機械化旅団に入隊し、ロシア占領地から町を解放したり、ウクライナ北東部スーミ州で戦闘に加わるなどした。
ローマンさんはこの間ずっと、インスタグラムに自分や仲間の画像を随時投稿した――処刑されたウクライナの知識人ミハイル・セメンコの詩を投稿したこともあった。
「私が死ぬのは、死期が訪れたからではない/人生を生きたからだ」「万物が物言わず成長する時、私は旅立つだろう/最後の嵐の夜を前にして――/死が私の心臓を止めると同時に、忽然(こつぜん)と/私の青春、私の人生、私の戦いを止めた瞬間に」(ウクライナ系米国人作家のボリス・ドレイリュク氏の翻訳から)
一方、父親はローマンさんが置かれていた危険な状況を考えないようにしていた。
「元気か? 困っていることはないか? そう尋ねることしかできない。はるか遠く離れ、息子の置かれている状況に何もしてやれない父親の愚かな問いかけだ」。11月に墓地を訪れた際、タラスさんはこう語った。
22年6月に戦死した後、ローマンさんの遺体はキーウに運ばれ、市長を含む数百人が参列する中で葬儀と追悼式が行われた。独立広場にも大勢が追悼に駆け付けた――13年、この先輝かしい人生を控えた若き抗議参加者が、まさに戦ったその場所で。
あれから1年以上が経過し、ローマンさんが遺(のこ)した足跡とマイダン革命の記憶は今もウクライナ人の心に響いている。戦争が2年目の冬に突入する中、ウクライナは全力でEU加盟を目指している。
この長年の夢は11月、実現に一歩近づいた。欧州委員会が具体的なウクライナ加盟交渉を年明けから始めるべきと勧告したのだ。
CNNがローマンさんの墓を訪れた際にも、2人の若い女性が墓参りに来ていた。ローマンさんの遺影のそばには、手向けられたばかりの花束とキャンドルが置かれていた。
「息子が自分たちを誇りに思ってくれたらうれしい。(息子の死から)1年以上経つが、ほぼ毎日何かしらローマンに関連することが起きている」とタラスさんは感情をあらわに語った。「息子の名のもとに大勢のウクライナ人が戦場へ向かい、息子の偉業を引き継ごうとしている。私の目には今でもローマンの雄姿が見える」
https://www.cnn.co.jp/world/35212761.htm...
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マイダン革命(Maidan revolution)、またはユーロ・マイダン革命は、2014年2月中下旬にウクライナで起こった革命である。2015年1月末、CNNのインタビューにおいて、当時のバラク・オバマ米大統領が、ウクライナでのヤヌコビッチ大統領の追放クーデターに米国が関与していたことを認めた。
2013年12月、ジョン・マケイン共和党上院議員は全ウクライナ連合「自由」総裁オレフ・チャフニーボクとヤツェニュクを訪ねた。同年12月15日のガーディアンが報じたところによると革命を支持した大衆に呼びかけたという。
盗聴された会話の中でヌーランド氏は、国連(UN)の潘基文事務総長がオランダのロバート・セリー元駐ウクライナ大使を国連特使としてウクライナへ派遣する意向だと聞いたと明かし、「そうなれば素晴らしい。このばらばらな状態を国連が手堅くまとめてくれるだろう。EUなんか、くそくらえ」と、ウクライナ情勢をめぐり対応を異にするEUへの不満をぶちまけている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8E%B3%E3%81%...
マイダン革命(Maidan revolution)、またはユーロ・マイダン革命は、2014年2月中下旬にウクライナで起こった革命である。2015年1月末、CNNのインタビューにおいて、当時のバラク・オバマ米大統領が、ウクライナでのヤヌコビッチ大統領の追放クーデターに米国が関与していたことを認めた。
2013年12月、ジョン・マケイン共和党上院議員は全ウクライナ連合「自由」総裁オレフ・チャフニーボクとヤツェニュクを訪ねた。同年12月15日のガーディアンが報じたところによると革命を支持した大衆に呼びかけたという。
盗聴された会話の中でヌーランド氏は、国連(UN)の潘基文事務総長がオランダのロバート・セリー元駐ウクライナ大使を国連特使としてウクライナへ派遣する意向だと聞いたと明かし、「そうなれば素晴らしい。このばらばらな状態を国連が手堅くまとめてくれるだろう。EUなんか、くそくらえ」と、ウクライナ情勢をめぐり対応を異にするEUへの不満をぶちまけている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8E%B3%E3%81%...
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