渡辺元智 わが人生
中学野球の名伯楽として平塚で名をはせていた笹尾晃平が横浜で指揮を執ると聞いた。後に恩師となる笹尾のもとへ、将来有望な中学生が続々と集まり始めた。
渡辺も横浜への進学を決めた。「鬼の笹尾」こと監督の笹尾晃平の計らいで硬式野球部に入部。「高校時代はとにかく鉄拳制裁だった」。笹尾のもとで厳しい3年
間を過ごした。
夢と目標を実現するため、やれと言われたメニュー以外に、内角を打つ練習など独自の工夫を怠らなかった。だから、いきなり甲子園という高いハードルを設定
した笹尾監督の激烈な練習メニューに付いていけたのだと思う。チームの力の程度を分析して、それならここまで行けるだろうという考え方が普通なのだろうが、
笹尾監督は個人の資質を無視し、目標一筋に私たちをしごき抜いた。
当時は軍隊式の鍛錬法がまだ生きていて、厳しさがむしろ歓迎された。父母の前で選手を殴っても、「ありがとうございました」と言われる時代風潮だった。殴
られた回数を自慢にする選手もいたくらいである。私はその一人だったから、殴られても痛いと感じなかった。憎まれて殴られるわけではない。むしろ、目をかけ
られて名誉と感じた。
鉄拳による気合い付けが暴力とされるようになったのは、時代による自我の認識の差であろう。もちろん、今の時代には通用しないことなのだが、進んで殴られ
にいくから少しも痛くなかった。たんこぶも出来なかった。うっかり頭をぶつけたときは我慢できないほど痛いのに、指導で殴られるときは痛くないし、たんこぶ
も出来ないのが不思議でならなかった。
誤解が生じないようにいうと、鉄拳による喝は指導方法の一つとして世の中に広く受け入れられていたわけで、感情に任せての一撃だったら、私はひそかに仕返
しを考えたろう。指導の一環としての鉄拳と感情にまかせての一撃は、殴られた本人ならばすぐ区別が付く。
笹尾監督の指導は世間が求める厳しさのはるか上をいった。部員が血反吐を吐くまでグランドを走らせ、途中で休むと鉄拳で気合いを入れた。特に基本の反復には
容赦がなかった。素振りを繰り返し手のひらにマメが出来ても、やめろといわなかった。マメがつぶれてバットに血がにじんでも、まだやれ、もっとやれと言い続けた。
とにかく、強い選手を集めて他校の野球部より鍛えれば、必ず甲子園に行けるという単純にして明快な指導法だった。迷いがないだけに指導は熾烈を極めた。
私は笹尾監督に恩義を感じていたから、通学の電車でルールブックに目を通しもしたし、練習でへとへとに疲れ切って帰ってから、同じ平塚の笹尾監督の自宅に三十
分以上かけてランニングで通い、スイングの指導を受けた。
結果として、それでも横浜高校の野球部は甲子園に出場できなかったわけだが、笹尾監督に野球に情熱を傾ける姿を見られたことが、のちに私の運命を決定づけた。
そして、甲子園に出るにはこれだけやらなければならないという指針を得たことが、横浜高校野球部の運命をも変えたのである。
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